徳島県徳島市の徳島県立鳥居龍蔵記念博物館は、徳島県が生んだ人類学・考古学・民族学の先駆者・鳥居龍蔵とその研究をテーマとする博物館です。時代に先駆けた鳥居龍蔵に関するこんな魅力的な博物館を皆さまにご紹介します。
鳥居龍蔵とは
鳥居龍蔵は1870年に現在の徳島県徳島市東船場町に生まれました。
家は裕福な家庭でしたが、学校嫌いのため、尋常小学校は卒業したものの、高等小学校は中退しました。
しかしその後、旧制中学の教師の助けを借りながら人類学を学び、
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となり、その縁で東京帝国大学の人類学教室と関係ができ、標本整理係として坪井正五郎の人類学教室へ入り、両親とともに上京しました。
そして1894年以降、遼東半島に始まり、
- モンゴル
- サハリン
- 沖縄
- 朝鮮半島
- 台湾
- 千島
- シベリア
- 中国東北部西南部
さらには南米など世界を股にかけて調査を行いました。海外でのフィールドワークは25歳67歳まで続きました。
航空機のない時代だったので、船や馬、車を使っての調査は大変だったようですが、そこでは学問的な観察を行い、その成果を発表していきました。
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鳥居龍蔵の研究について
まず、遼東半島における調査において、鳥居龍蔵は、ドルメンという巨石墓、即ち大きな石によるお墓を発見しました。
この発見により鳥居龍蔵はフィールドワークの重要性を深く認識し、海外での調査を推し進めていくことになりました。
この調査は本来行くはずだった人が行けなくなったために偶然回ってきたチャンスでしたが、それを見事に生かして発見を成した彼の優れた資質が感じられますね。
このドルメンというのは、世界各地でみられる墓地の形で、支石となる石を真ん中を囲むように並べ、その上に天井石を置くという形をとります。
時代としては新石器時代初期金属器時代にみられます。
その後、1896年に日清戦争によって日本に割譲された台湾の調査を東京帝国大学から依頼された鳥居龍蔵は初めて調査に写真撮影を導入しました。
この際には台湾東部の孤島に住む先住民族・タオ族の身体測定などを行いました。鳥居龍蔵は綿密な実証研究・調査を行いました。
しかし、宗教などに関する調査は苦手だったようで、タオ族の漁業に関するタブーを調査できなかったというミスもありました。人はどんなことでも得手不得手があるのでこれは仕方ないですね。
その後、師であった坪井正五郎の命を受けて、千島とカムチャツカへの調査を行い、師の説を覆し、コロボックルがアイヌの伝説であり、千島のアイヌ民族がその調査の少し前まで土器や石器を使用して、竪穴式住居に住んでいたことを明らかにしました。
その後、雲南省のイ族と台湾の少数民族が深い関係があるのではないかと考えた鳥居龍蔵は調査を行いましたが、これは中途で終わらざるを得なくなりました。
しかしさらに中国東北部モンゴルへの調査を続けました。
その後は朝鮮半島のフィールドワーク、そしてシベリアの先住民族について調査を行い、独系専門学校だった上智を大学に昇格させました。
その後、中国東北部への調査を精力的に行い、さらに南米の調査を行いましたが、戦後は蔵書などは無事だったものの、生活は困窮をきわめ、援助の手が差し伸べられたそうです。
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館について
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館には鳥居龍蔵が収集した
- 資料
- 撮影した写真
- 遺品
などが所蔵されています。
そして常設展が行われており、
- 資料や写真からフィールドワークによってわかったことを展示したコーナー
- 生涯を辿ったコーナー
- 民族衣装を着たりできるコーナー
に分けて展示されています。
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の周辺、訪れる客層、お薦めの客層
眉山
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館周辺には、眉山という山があり、徳島県のなかでも特に眺めのいいスポットとして知られています。
弁天山
また、弁天山という割合、標高の低い山があり、春にはそこで桜まつりが行われ賑います。
訪れる客層としては、ご年配の方からお子さんまで幅広いといえます。
お薦めの客層としては、外国人の方々が挙げられます。
鳥居龍蔵の調査対象は海外が多く、その意味で外国の方々にも興味深いと思われます。是非訪れていただきたいですね。
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館へのアクセス情報
- 牟岐線文化の森駅→バス停文化の森駅東→市原行きバス→乗車時間約7分→バス停文化の森→下車
徳島県立鳥居龍蔵記念博物館の見どころ!紹介人類学・考古学・民族学の先駆者鳥居龍蔵の博物館!【徳島県徳島市】のまとめ
以上、徳島県立鳥居龍蔵記念博物館についてご紹介してきました。鳥居龍蔵の時代は日本が植民地を拡大していた帝国主義の時代で、その要請もあって東アジア中心にフィールドワークを行いました。鳥居龍蔵は必ずしも東京帝国大学の要請に忠実だったわけではなく、そのために徐々に本流から外されてしまいましたが、しかし彼の業績は見事なもので、今日改めて振り返り、評価すべき点があるといえます。そんな意味でも是非訪れていただきたいと思います!