森鴎外記念館は、島根県鹿足郡津和野にある、独立した鴎外の専門的な記念館としては世界で初めてのものです。記念館は国指定史跡・森鴎外旧宅の南側に隣接し、鴎外旧宅を展示物の一部として取り込んでいます。建物は鉄筋コンクリート造り二階建てで、一階部分は受付、事務室、展示室、二階部分は収蔵俸、会議室、学芸員室で構成されています。記念館では映像や写真パネル、鴎外の遺品をはじめ貴重な資料の展示を通して、より一層幅広い鴎外像を紹介し、人々の鴎外文学への親しみと理解を一段と深めることが出来ます。
森鴎外、その生涯に迫る
森鴎外は1862年2月17日に、石見国津和野町田村(現・島根県津和野町)に生を受けました。
本名は「森 林太郎(りんたろう)」といい、代々津和野藩の典医をつとめる森家では、祖父と父を婿養子として迎えているため、久々の跡継ぎ誕生であったそうです。
藩医家の嫡男として、幼い頃から論語や孟子、オランダ語などを学び、養老館では四書五経を復読するほど。
当時の記録から、9歳で15歳相当の学力と推測されていて、家族と周囲から将来を期待されていました。
1872年、廃藩置県等をきっかけに10歳で父と上京し、墨田区曳舟に移り住みます。
1873年の11月、入校試問を受け、第一大学区医学校(現・東京大学医学部)予科に実年齢より2歳多く偽り、12歳で入学するという早熟ぶりを発揮しています。
本科に進むと、ドイツ人教官たちの講義を受ける一方で、漢方医書を読み、また文学を乱読し、漢詩・漢文に傾倒し、和歌を作っていたというので、この頃から作家としての萌芽があったと言えるでしょう。
鴎外は19歳で本科を卒業しましたが、卒業席次が8番だったことから、大学に残って研究者になる道は閉ざされました。
しかし捨てる神あれば拾う神もいるもので、鴎外の同期生が、陸軍軍医本部次長の石黒忠悳に鴎外を採用するよう長文の熱い推薦状を出してくれました。
また他の友人が陸軍省入りをすすめ、こうして鴎外は東京陸軍病院に勤務することになりました。
鴎外は衛生学を専攻し、ドイツ語の医療文献なども積極的に訳しましたが、熱心に衛生学を学ぶあまり極度の潔癖症になり、しっかり加熱したもの以外は食べられなくなってしまったというエピソードがあります。
細菌学者のパスツールも同じような理由で潔癖症になっているので、知らぬが仏ということも、世の中にはあるようですね。
ドイツ留学、そして「舞姫」誕生秘話
しかしながら、その衛生学の功績を認められ、1884年、ドイツ帝国陸軍の衛生制度を調べるため、鴎外は念願であるドイツ留学を命じられました。
鴎外はドイツ各地でいかんなく実力を発揮し、高い評価を得ます。
そしてベルリンで出会った、エリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトという女性は、鴎外の運命を変える小説「舞姫」のヒロイン、エリスのモデルになった女性だと言われています。
ふたりは鴎外の仕事の都合で別れ別れになってしまいますが、鴎外が帰国したあと来日し、ひと月ほど滞在しました。
女性がドイツに戻ったあとも、後年、文通をするなど、その女性を生涯忘れることはなかったとされます。
「舞姫」の主人公、豊太郎(これは本名の林太郎をもじったものだと言われています)は、結局エリスと結ばれることは叶いませんでしたが、その根底には鴎外の切ない恋心が隠されていたのですね。
ドイツから日本に戻った鴎外は、徐々に文筆家としての活動を始めます。
最初のうちは外国文学の翻訳が主でしたが、「舞姫」を友人の依頼で発表すると、当時、情報の乏しい欧州ドイツを舞台にし、あまつさえ日本人と外国人が恋愛関係になるという展開は、読者を大いに驚かせたと言われています。
しかしながら、石橋忍月が主人公の豊太郎が意志薄弱であることなどを指摘し批判、鴎外も応戦。
これは後に「舞姫論争」と名付けられ、最初の本格的な近代文学論争だと言われています。
1900年、1月に先妻・赤松登志子が結核で死亡してしまいましたが、母の勧めるまま1902年1月、18歳年下の荒木志げとお見合いをし、そのまま結婚をしました(ちなみに41歳と23歳のバツイチ同士です)。
登志子とは一年足らずの結婚生活で、長男を授かりましたが、志げとの間には四人の子供が生まれています。
この子供たちの名前が実に個性的で、
- 長男は於菟(おと)
- 長女は茉莉(まり)
- 次女は杏奴(あんぬ)
- 次男は不律(ふりつ)
- 三男は類(るい)
と、まるで現代でいう「キラキラネーム」のようです。
しかし、これにはれっきとした理由があり、鴎外の本名である「林太郎」は外国人には発音が難しく、子供達は世界で通用する名前にしたい、という鴎外の願いが込められているのです。
鴎外は特に長女の茉莉を溺愛しました。茉莉を16歳まで膝の上に乗せ、「泥棒をしても、おまりがすれば上等よ」と言うほどでした。
後に茉莉は「父の帽子」というエッセイで、鴎外をしばしば獅子に例えています。
それは孤独で怒りっぽい部分をなぞらえたもので、そんな鴎外の精神をあらわし、精神と外面両方で、強く孤独に耐える父を尊敬していたのでしょう。
しかし茉莉は渡仏する途中で最愛の父・鴎外を亡くし、このことが後年に鷗外像を極端に美化する一因となったと言われています。
スポンサーリンク
近年、「文豪」をテーマにした漫画やゲームが人気を博し、にわかに文豪たちに脚光が当たっています。
事の発端は、文豪たちが異能力を使い戦う「文豪ストレイドッグス」という漫画で、鴎外は主人公・中島敦(代表作「山月記」)と敵対するダンディなマフィアのボスとして登場します。
また、PC・アプリゲームの「文豪とアルケミスト」では、鴎外は大変な美青年として登場し、刃を振るって戦います。
このゲームでは他の文豪も非常に美化されており、イケメン好きの女性のハートをがっちり掴んで大ヒットしています。
そんな訳で、鴎外はじめ文豪たちには、今再び熱い視線が注がれています。
漫画やゲームで鴎外を知った方もそうでない方も、森鴎外記念館を訪れてみてはいかがでしょうか?
森鴎外記念館間へのアクセスは、JR津和野駅から石見交通バス津和野温泉行きで7分(鴎外旧居前で下車、徒歩3分)、車では中国道六日市ICから国道187号を通り、国道9号経由で45km、約1時間ほどかかります。
記念館で鴎外の魅力に存分に触れた後には、少し距離は離れていますが、鴎外の遺骨が分骨され埋葬されている「永明寺」へお墓参りして、是非鴎外を偲んで欲しいです。
鴎外は1922年に肺結核のために満60歳でこの世を去りましたが、「余ハ石見人 森林太郎トシテ死セント欲ス」で始まる最後の遺言が有名で、その遺言により永明寺のお墓には一切の栄誉と称号を排して「森林太郎ノ墓」とのみ刻されています。
津和野町の観光・お出かけスポット
津和野町の他の見どころをまとめました。
森鴎外を知るなら森鴎外記念館!明治の文豪を偲ぶ旅!【島根県鹿足郡津和野町】のまとめ
鴎外は生涯をほぼ東京で過ごしましたが、10歳まで過ごした津和野がきっと忘れられなかったのでしょうね。津和野は風光明媚な城下町で、山間の小さな盆地に広がる町並みは、「小京都」の代表格として有名です。森鴎外記念館だけではなく、是非観光も楽しんでいってくださいね!