長崎県長崎市の如己堂(にょこどう)は、永井博士記念館の敷地内にあります。白血病に苦しみ、「余命3年」と宣告されていた永井隆博士のために同市の浦上の人たちやカトリック教会の信徒によって建てられた二畳一間のこの建物には、悲しい歴史の背景と博士の恒久平和への祈りが詰まっています。
観光前に永井隆氏(永井博士)を知っておこう!
永井隆氏(永井博士)は、1908年島根県は松江市に生まれました。
1932年の昭和7年、長崎医科大学卒業直前に急性中耳炎にかかり内科医専攻を断念せざるをえなかった博士は同大学付属病院にて放射線医学を学び、満州事変、日中戦争への2度の従軍を経て1944年(昭和19年)に医学博士となりました。
1945年6月、散乱放射線被爆による慢性骨髄性白血病で「余命3年」と博士は言われていました。
同年、8月9日。長崎市原子爆弾投下による被爆で自身も被爆し、妻をも亡くしました。
被爆後の2か月間、被災者の救護活動を行い10月には浦上に戻りますが、1946年には病状が悪化、寝たきりを余儀なくされます。
被爆から3年後の1948年3月に建てられた如己堂。
名前の由来は新約聖書にある福音書12章31節、「己の如く人を愛せよ」という言葉から名づけられたそうです。
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平和を祈り、訴え続ける永井隆博士
著書
博士は寝たきりを余儀なくされても尚、できることは書くことだとして、「長崎の鐘」、「この子を残して」、「ロザリオの鎖」、「原子雲の下に生きて」など17冊もの著書を残し平和を訴え続けました。
桜の苗木の寄贈
博士は長崎復興再建のために収入の大半を寄付し、小中学校、高等学校、浦上天主堂などに1200本余りの桜の苗木を寄贈しました。
このように私たちが春になると桜を愛でることができるのも博士の平和への願いからできたことだったのです。
また、博士は子供たちに生きるために希望をと小さな図書館「うちらの図書館」も設けました。
長崎名誉市民賞、そして国家表彰
博士は1949年、長崎名誉市民賞の称号、1950年には国家表彰を授けられました。
しかし1951年4月「乙女峠」を脱稿した後に病状が悪化し、同年5月1日に43年の短い生涯を終えました。
その功績は長崎で最初の名誉市民として、坂本国際墓地で妻の緑さんと眠っています。
如己堂へのアクセスと、関連する周辺の観光地
JR長崎駅前から路面電車(赤迫行)に乗り大橋電停で下車、徒歩10分程度。
周辺には浦上天主堂、山里小学校、平和公園などがあります。
浦上天主堂や平和公園、長崎原爆資料館など平和に関する施設が近くにあるので、全て回ってみるのも良いかもしれません。
入場料、如己堂は無料です。
《周辺のスポット》
<永井隆記念館(住所同)>
隣接された永井隆記念館は一般の方が100円、学生(小・中・高)は無料。
永井隆記念館は1階が博士の遺品、書画、関連する写真などが置かれてあります。
2階には図書館があります。
<帳方屋敷跡(住所同)>
1614年、徳川家康が発布した禁教令によって、宣教師は国外追放、教会はすべて破壊されてしまいます。
長崎市にいたキリシタン(約5万人)は武力抵抗することはなく、以後250年間潜伏しました。
この間に教義を伝えるための組織が作られ指導者の頭を「帳方」と呼び、初代、帳方を務めたのが孫右衛門です。
以後、子孫が帳方を継承、7代目吉蔵(浦上3番崩れで投獄、獄死殉教)まで続きました。
その屋敷跡に設けられたのが如己堂です。
永井博士の妻、緑さんは吉蔵の子孫にあたります。
<永井千本桜(山里小学校ほか植栽の桜)>
永井博士は焼け野原を「花咲く丘」にしようと昭和23年に九州タイムズから贈与された寄付金をもとに桜の苗木、約1200本を山里小学校、純心女子学園、浦上天主堂などに植えました。
その桜のほとんどが代替えしていましたが、今も尚、「永井千本桜」と呼ばれ浦上の丘に咲いています。
<山王神社二の鳥居(長崎市坂本2丁目)>
原爆の爆風により片側一本の柱だけで立っている鳥居。
その時の爆風のすごさと必死で堪えて立っている鳥居は山王神社の被爆クスノキからすぐのところにあります。
片足鳥居の名前で有名です。

長崎市立山里小学校の桜
被爆体験を扱った(平和懇願)商品も要チェック
長崎原爆資料館(長崎市平野町)では喫茶コーナーの近くにミュージアムショップで原爆・平和に関する書籍、グッズなどが売られています。
<おすすめ商品>
- 「長崎原爆の記録」(資料館図録)500円
- 「ふりそでの少女」1,572円
- 「あの夏の日」1,728円
- その他、CD、ビデオ、絵はがき、Tシャツなども売っています。

桜満開の長崎原爆爆心地公園
如己堂、永井博士の祈りと見どころを紹介【長崎県長崎市】のまとめ
戦争時代の話、原爆の話などに触れる機会があると身につまされる思いがしますよね。それでも、長崎の戦後の復興や永井博士の想いは、この美しい街長崎にたしかに反映されているとひしひしと感じました。また、観光スポットだけでなく自然豊かな長崎のたくさんの良い部分を皆様に見て、感じて頂けたらと思っている次第です。歴史と異国情緒、自然豊かな街、長崎よか街、是非、一度となく何度でも足を運んで頂けたらと願っております。それでは皆さんが良い旅をお送りするのを心待ちにしております!