宮城県多賀城市にある多賀城碑は、那須国造碑(栃木県)、多胡碑(群馬県)とともに日本三古碑の一つに数えられる奈良時代の古碑です。高さ196センチ、幅92センチの碑面には、平城京や各国境からの距離、多賀城の創建や修造について141文字でつづられています。歌枕の「壷碑」とも呼ばれ、江戸時代には松尾芭蕉が訪れ、対面した感激を『奥の細道』に記しています。本日はそんな多賀城碑について、ご紹介いたします!!
多賀城碑は、宮城県多賀城市市川字田屋場にありますが、ここは奈良・平安時代、東北全域を治めるため多賀城が置かれた場所であり、碑は、多賀城の正門である南門から城内に入ってすぐのところに立っています。
覆屋が建てられるなど地元の人々によって大切に保護されてきました。偽物説がありましたが、近年の研究や調査の結果本物であることが確定しています。
この碑は、江戸時代初めに発見され、すぐに歌枕「壺碑」の名で呼ばれました。このことが碑の存在を有名にし、松尾芭蕉、井原西鶴、新井白石、水戸光圀なども強い関心を寄せています。
碑に刻まれた141文字の中には、多賀城と古代東北の解明にとって重要な記載があり、また数少ない奈良時代の金石文として貴重であることから、平成10年6月、国の重要文化財に指定されました。
また、歌枕「壺碑(つぼの石ぶみ)」として、平成26年10月6日、名勝「おくのほそ道の風景地」に指定されました。
- 住所:多賀城市市川字田屋場
- アクセス:JR国府多賀城駅から徒歩10分
◆碑文
現在は、明治8年に建てられた覆堂に納まり雨露を凌いでいるが、芭蕉が訪ねた元禄2年(1689年)当時は野ざらしの状態で、碑面が、文字を隠すほどの苔で覆われていたことが「おくのほそ道」から知られています。
つぼの石ぶみは高サ六尺餘、横三尺斗歟。苔を穿て文字幽也。(おくのほそ道)
多賀城碑は、江戸時代に土中から掘り出されたか、または草むらに埋もれていたのを掘り起こされたと見られています。
その時期は、新井白石の「同文通考」によれば、芭蕉が訪れた15年~30年程前の万治・寛文の頃(1658~1673年)と考えられています。
「つぼのいしぶみ」について
「つぼのいしぶみ」は、実は歌枕であり、西行や藤原清輔、源頼朝らによって、未知なる陸奥の象徴として和歌に詠み込まれています。
- ①「山家集」 西行 陸奥のおくゆかしくぞおもほゆる壷の碑外の浜風
- ② 「家集」 藤原清輔 石ぶみやつかろの遠(おち)に有りと聞えぞ世中を思ひはなれぬ
- ③「拾玉集」 源頼朝 陸奥の磐手忍はえそ知ぬ書尽してよ壷のいしぶみ
◆多賀城跡とはどんなところだった!?
多賀城跡は仙台市の北東約10km、仙台平野を一望できる多賀城市市川・浮島の丘陵上にあります。そこには兵士や役人をはじめ、様々な雑用をする人々が多数集まっていました。
上級役人は、長官をはじめ都から派遣されてきた人々で、20人程いました。兵士は500人が常駐しており、指揮する指導者も20人程いました。
雑用をする人々は当時の規定から700人程と推定されています。
役人は身分に応じた広さの宅地をもらい、数棟の掘立式の住宅や倉庫を建てて生活していた一方で、兵士や雑用をする人々は竪穴住居に住んでいたようです。
(※多賀城調査研究所HPよりhttp://www.thm.pref.miyagi.jp/kenkyusyo/explanation.html)
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◆多賀城神社
昭和27年多賀城政庁跡に創建された市内で最も新しい神社です。即位前に陸奥の太守を務めた後村上天皇と、それに仕えた北畠親房・顕家父子らが祀られています。
昭和48年政庁跡の整備に伴い現在地に遷されてきました。社殿は多賀城海軍工廠の奉安殿を移築したものです
- 住所:多賀城市市川字大畑
- アクセス:JR国府多賀城駅から徒歩20分
◆多賀城跡はパワースポット!?
多賀城といえば古代、東北支配の一大拠点でした。多賀城周辺には多数のパワースポットが存在していますが、そのメインは鬼門の方向にあります。
実は、多賀城の鬼門には塩釜に通じる道があり、この道から蝦夷が攻撃をかけ、城が焼けた事もあったのです。この鬼門を守っているのは、陸奥総社宮です。
「延喜式」(927年)によれば、当時、全国で見ると多数(3,000社以上)の神社がありました。
しかし全ての神社を参拝するのは大変なため、各国府毎に、多くの祭神を一ヶ所に合祀勧請する事となり、総社宮が設けられました。
多賀城国府に設けられたのが、陸奥総社宮で、陸奥国31郡・100社の祭神が合祀勧請されました。陸奥総社宮の階段入口に、合祀されている神社名が記されています。
現在、陸奥総社宮は安産守護、海上保護、大難除けなどにご利益があるとされている他、拝殿左手側には“安産枕”が置かれており、これも効果満点なのだとか!
なお、塩釜市に有名な鹽竃(しおがま)神社があります。この神社も多賀城の鬼門に位置し、多賀城を守護していたといわれます。
しかし”鹽竈神社に詣でる前に、まず陸奥総社宮に詣でないと効果がない”と伝えられています。
多賀城政庁跡の中心には、基壇と礎石跡が復元された正殿跡があります。ここが古代、“東北支配の中心、権威の象徴だった場所”で、足の下には1300年前からの遺跡が広がっています。
この正殿跡、実は“現代のパワースポット”にもなっています。
正殿跡の「ある場所」に触れると宝くじに当たる!と噂になっています!それも、女性紙で報じられたのがきっかけだとか!
ご興味のある方は多賀城のボランティアガイドに聞き、場所を特定してください!
多賀城市の観光・お出かけスポット
多賀城市の他の見どころをまとめました。
多賀城碑の見どころ!松尾芭蕉も絶賛の古代東北行政の中心地【宮城県多賀城市】のまとめ
明確に歴史を語り続ける多賀城碑。この碑文を見て、多くの偉人が感動したその気持ちは、現代の私達も味わうことができます!また、「多賀城跡」は日本の100名城の1つ(7番目)にもなっています。しかし、軍事中心のお城とは異なり、ここは行政の中心地でした。かつての蝦夷の人々の暮らしや気持ちを考えるには絶好の場所ではないでしょうか。時代を超えた感動をぜひとも味わってみてください!