京都府京都市山科区にある「山科本願寺」と聞くと、一般的にはお寺だと思う人が多いと思いますが、実はこの山科本願寺を中核とした立派な城郭です。ここでは、その山科本願寺跡の魅力をご紹介します。
【日本における仏教の宗教観】
山科本願寺跡の場所は、現在の山科地区にあった浄土真宗の寺院でした。
応仁の乱の後、疲弊していた京の町には仏教の教えが一層強く広まって行くのです。
その頃の仏教界では、既にいくつかの宗派がしのぎを削っていたのです。
自分の宗派が一番優れている事を思うのは当然であったと思われます。
元々仏教は仏陀の教えに基づいて、作られた仏の教えを衆生に伝える事で民衆を救うための法です。
しかし、そこには教義の解釈の違いで様々な宗派が次々と出来てきました。
浄土宗の開祖は「法然」ですが、その弟子親鸞は真実の教えとして「南無阿弥陀佛」を唱え、これを浄土真宗としました。
浄土宗と浄土真宗の違いは、
- 浄土宗は「念仏を唱えることこそが信仰を表す証」
- 浄土真宗は「念仏を唱えようとする気持ちが大切」
という念仏の捉え方にあります。
また、浄土真宗の特徴は無戒であり、僧侶に肉食妻帯が許されるというものでしょう。
【鎌倉時代の宗教戦争】
当時仏教と国家はとても結びつき強かったのです。一族の菩提を弔って貰っていたので、当然の事でしょう。
日本は古くから仏教を信仰しており、そこには宗派の差別は無かった訳です。
しかし、その流れも変化していきます。
日蓮上人は「南無妙法蓮華経」を唱え、他の宗教を邪教として排除するように幕府に求めます。
それが「立正安国論」で、当時の最高実力者であった執権・北条時頼に差し出すと、国が正法である「法華経」を信じないから悪難や災いが続くのだと説きました。
しかし、自分以外の宗教を無くせという言い分に北条時頼は激怒し、日蓮を佐渡に流罪にしてしまうのです。
日蓮の教えは過激なものでした。
他の邪宗の者は殺しても、罪には当たらないという教義でもありましたので、法華宗の信者は過激に走ります。
一方、他の宗派の門徒も、自分たちの宗教しか認めない法華派に、当然の如く反撃に出るのはごく自然の事でしょう。
こうして、自分達が日蓮によって「邪宗」とされた他宗教の門派達も、日蓮の過激な「法華宗」を恐れ、それを排除しようとします。
こうして、対立は決定的なものになりました。
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【応仁の乱のその後と宗派の暴走】
応仁の乱ののち国は疲弊していきます。
将軍家や公家達は民の声には耳を傾けず、遊興にふけるとさらに日本中が混迷へと歩みを進めて行きます。
民衆に仏教が本格的に浸透していったのも、そういった経緯があったのでしょう。
幕府が当てにできなければ、自分でどうにかするしかありません。
寺院もその規模を大きくすることで、各地の大名といった権力者と結びついて行きます。
この時代の寺院の在りようは、今とは随分様相が違っています。
自ら寺を要塞化して門徒を始め、僧兵により武力化していきました。
山科本願寺もそうした寺で、対立していた「法華宗」と当時勢力を拡大している各地の武将が結び付き、宗教戦争と領土拡大をめざずという両者の利害が一致して、戦いが始まりました。
この争いは「飯盛城の戦い」から始まり、「山科本願寺の戦い」に発展します。
飯盛城の戦いで勝利した一向一揆は大和への侵攻を開始したのです。
この時、細川晴元は脅威を感じ、六角氏と手を結び法華宗の決起を促しました。
戦いは山科本願寺側が破れて、この宗派一同は「石山本願寺」へ移行する事になります。
山科本願寺の構造
山科本願寺跡は周囲を城郭の曲輪がくるみ、中には、
- 本丸に相当する「御影堂」
- 「向所」
- 「寝殿」
- 「阿弥陀堂」
等がありました。
おおまかに4つの区画に仕切られていたようですが、二の丸に相当するのが内寺内です。
こちらでは帰依した者や信者が住んでいたのでしょう。
三の丸に相当するのが外寺内で、こちらではおもに商人が住んでいたとされています。
最後に南殿は隠居場と見られていますが、物見櫓や二重の堀に土塁と、まさに城の様相を見せています。
山科本願寺跡を訪れた人の口コミ・感想
日本の歴史を身を持って体感できる山科本願寺跡ですが、ここで実際に訪れた方の口コミ、感想を見てみましょう。
「15世紀に創建された山科本願寺は、当初は寺の周囲を土塁や堀で囲った一大寺町を形成していたと言われていますが、16世紀に起こった法華一揆により全てが焼き払われ、今日では跡地に山科別院が建っているのと、近くに残る土塁の跡と南殿を確認できるのみです。ただ、これらの位置関係から想像するに、相当な規模だったろうと想像されます。」
「山科本願寺跡は城郭寺院の跡で、現在も山科中央公園等には往年の規模の大きさが分かる巨大な土塁跡が残されています。その他にも「外寺内」と呼ばれた場所には門と築地に囲まれた空間に、山科本願寺を築いた蓮如の御廟所が設けられており、木立の中でひっそりと佇んでいました。」
山科本願寺跡の基本情報
- 名称:山科中央公園
- 住所: 607-8343 所在地 京都市山科区西野阿芸沢町
- 電話番号:075-592-3088
- アクセス方法:地下鉄東西線「東野駅」徒歩10分
- 名神高速道路→京都東IC→国道1号
- 近隣に駐車場無し
山科本願寺跡の見どころ情報!一向一揆の激戦の舞台【京都府京都市山科区】のまとめ
山科本願寺跡では、風呂跡も見つかっています。当時のお風呂とは違い、火を焚いて石を熱しておき、底へ水をかけるという、今でいうところのサウナ風呂でした。すぐそばには井戸があり、ここで水をかぶっていたのでしょう。