兵庫県明石市の明石城跡は、人丸山に建てられた城であり、かつては赤松氏がこの地を治めていました。歴史上もこの場所は要所であり、重要視される事が多かった地域でもあります。この場所では、かつては大戦があり、嘉吉の乱で多くの人命が失われています。また、有名な剣豪も訪れた場所でもあります。ここではこの、明石城跡の魅力をご紹介します。
明石城の歴史と室町時代
足利義教の独裁政権
室町時代にはこの周辺の備前に美作や、この地にあたる播磨の守護であった赤松満祐が収めていました。
当時の将軍足利義教の独断した独裁政権の元、武士だけに限らず公家までもが、その横暴により簡単な罪で罰せられ、お家断絶や領地没収の憂き目にあってしまいました。
当時の実力者であった赤松満祐もその一人で、播磨の国を将軍が勝手に領地を取り上げると、可愛がっていた赤松満祐の甥にあげてしまうという事件が起こりました。
赤松満祐はこれを不満に感じてはいましたが、当初は我慢していたようです。
しかし、幕府の重鎮や公家が次々と汚名を着せられ、島流しや領地没収をされて行くのを見ながら我慢の限界が来ていたようです。
赤松満祐は、戦勝祝いにと自宅に足利義教と大名諸侯を呼び出し、切り捨ててしまいますが、その後天下を目指すどころか、自領へと引き換えしてしまい、その後幕府の討伐軍により討伐されてしまいます。
その後、赤松家は没してしまいますが、応仁の乱の戦功でその子孫により、赤松家はお家再興を果たす事になります。
ちなみに暗殺された足利義教はくじ引きで選ばれたことから、くじ引き将軍とも呼ばれています。
明石城跡
1617年に2代将軍であった徳川秀忠は、外様大名の抑えの要として、後の小倉城主となる小笠原忠真をこの地に封じ、築城を命じます。
この時に将軍家、本多家の後押しでこの明石城を築く事になりました。
この時将軍秀忠から1千貫の銀が奉じられていますが、今の価値であれば12億位でしょうか。
築城には、義理父である本多忠政と相談しながら町割りを行ったそうで、この時には後に小笠原忠真と深いかかわり合いを持つ、剣豪宮本武蔵がこれを指導したと、様々な史書に出て来ます。
小笠原忠真と宮本武蔵の関係は深く、長崎の島原の乱の時にもこの小笠原忠真に付き従っていたとされています。
佐々木小次郎との船島での「巌流島の戦い」の時に小倉藩で許可を出したのは、細川忠利で小笠原忠真の義兄弟にあたり、その後武蔵が余生を送る熊本では、細川忠利が加増移封しています。
宮本武蔵はこの地とも縁が深く、室町時代にに勢力を誇っていた赤松氏は、武蔵の郷土であった美作の守護であったそうです。
武蔵の父と言われる無二斎は新免流の使い手で、赤松氏の流派にも新免流がありますので、その流れを否定するものはないでしょう。
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明石城は天守閣を持たない平城
明石城は、昭和53年の大改修で蘇っており、三層の櫓を持つ天守閣を持たない平城です。
改修時に判った事ですが、廃材などは一切使われておらず、当時の城作りの粋を極めた構造だったようです。
ただし、本丸以外は他からの移されたものもあり、伏見城のものではないかと言われています。
宮本武蔵が、この明石城に関わった事は良く知られていますが、個々のある庭園も過去の記録と共に、武蔵の作ったと言われる庭園を再現しています。
こちらには樹木屋敷も建てられています。
また武蔵は生涯誰にも使えてはいませんが、食客としては小笠原忠真の元に長くおり、茶人であった彼と気があっていたのでしょう。
後に武蔵の養子になる宮本伊織は、この小倉藩に仕える事になります。
明石城跡を訪れた人の口コミ・感想
はじめての兵庫観光の際にはぜひ行っておきたい明石城跡ですが、ここで実際に行った方の口コミ、感想を見てみましょう。
「本丸はなく、石垣と二つの櫓が残るだけの城跡ですが、最上段からは明石市の市街地から明石海峡大橋や明石天文台を一望できるため、眺めの良い公園といった感じで利用する方が多いのでは無いかと思います。市民には見慣れた光景ですが、初めて明石を訪れた方にはおすすめです。」
「大阪からドライブするには、丁度よい距離です。JR明石駅からすぐに、入り口があります。明石城跡でイベントをしていて、初めて入りました。露店がたくさん出ていて、野菜をはじめ、フリーマーケットやおいしそうな料理が売られていました。お城は予想していたよりも立派なお城で、天守閣から明石の街を一望でき、とっても気持ちのよい場所です。」
明石城跡の基本情報
- 住所:明石市明石公園1-27
- 電話番号:078-912-7600 兵庫県園芸・公園協会
- アクセス方法:JR明石駅北へ歩いてすぐ
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この明石城跡の本丸付近には、柿本人麻呂を祀った人丸塚があったとされています。柿本人麻呂は660年位の人物で、飛鳥時代を代表する歌人の一人です。また三十六歌仙の一人であり、百人一首にもその名がある事は有名でしょう。人々からは、「人丸」との愛称で呼ばれていたとされ、この人丸山もその由来から来ているという話もあります。