岐阜県加茂郡東白川村は岐阜県の東部にあり美濃三河高原にあり、標高約1000mの山に囲まれており、村の90%が山林で占めています。東白川村の中心を白川が通っており、その周りに沢山の家が分布しています。白川茶やヒノキがここ東白川村の特産物として有名です。
つちのこ資料館
白川口駅からバスで30分の所にある日本で唯一のつちのこ資料館。つちのこの文献や資料、動く模型などがここには展示してあります。
つちのこという未確認の生き物なので、とても珍しく子供達でも楽しく学ぶことができます。
一階の売店ではその売店でしか購入できないつちのこグッズや東白川村の特産品を買う事ができます。
二階が資料館になっており、とても手作り感満載であったかみのある資料館となっています。
神田神社
718年に建てられた神田神社、昔は『カムダジンジャ』と呼ばれていました。その後、138年に修復され、神仏習合によって白山妙大権現と名前を改称しました。
ところがまた1558年には再興され1717年に再び再建しました。1868年にこの近辺で苗木藩によって廃仏毀釈が行われた事によって白山妙大権現と呼ばれていたが神田神社へと改称することとなりました。
1871年に苗木県の郷社となり、1873年には岐阜県の郷社となりました。神田神社では毎年9月になると神田神社例大祭が行われます。この祭事では獅子舞や御神酒が振る舞われます。
2008年からは新しく山車が作られ引き回しが行われています。
石戸神社
石戸神社は、もと「九頭(くず)大明神」と言われていました。いつ建てられたかは不明とされています。しかし、東白川村の中では一番古い神社と言われています。
ここは白川が流れている事から水の氾濫などで水害に困った農民の方が町を守ろうと土石を盛ったり、堤防をきづいたり祠をつくったりと平和な町を祈りました。
しかし1573年に社殿が火災にあいなくなってしまったが、翌年の1574年に願主が真言宗妙観寺となり再建されました。
願主となった妙観寺は石戸神社まで100m地点の所にあり、関ヶ原の戦いで断絶してしまいました。
その後1613年に建て替えられた、1684年にも再建されたものが現在の社殿となっています。1868年には九頭大明神と言われていたものが石戸神社へと改称しました。
四つ割の南無阿弥陀仏碑
1835年7月に三人の施主が悪病や飢饉に対しての祈願や犠牲者への供養のために昔の常楽寺の山門の脇に建てられました。
この四つ割の南無阿弥陀仏碑の材質は濃飛流紋岩類と呼ばれるもので、地元白川で採取されたものです。
石工は長野県の伝蔵と言われるもので、寺に滞在し半年かけて完成させましたがが、1870年に廃仏毀釈によって塔を壊せと命令されました。
そこで伝蔵は縦4つに割り、それを近くの畑や池の脇石にしたり、踏み石にしたりと名号を隠して積み込んでいました。しかし、年月が経ち昭和の時代に入ると村に悪病が流行しだし不幸が続きました。
これを地元の人たちは『石仏埋没のたたり』というようになり、14名の壮年が世話人となり散在した四つの石を集め現在の場所に再建しました。
毎年8月15日なると地元の住人の方に寄って盂蘭盆の供養がされているため、年中お供えの花が絶えません。
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蟠龍寺跡
県道62号線から約50m北上した所にあるのが青松山蟠龍寺跡になります。
- 高さ5m
- 延長50m
ほどにもなる様々な大きさの石が積み上げられており、石垣上にある茶畑が寺屋敷の跡になっています。
1665年に蟠龍寺が中興再建されました。また当時蟠龍寺は鎌倉幕府が建てた大威徳寺、現在の下呂の末寺でした。
しかし近年で菩提寺として、現在の中津川市苗木に建立した天龍山の雲林寺の末寺として臨済宗妙心寺派になりました。
壇家は
- 須崎
- 中屋
- 久須見
- 下野
- 大沢
- 宮代
- 柏本
の旧七ヶ村におよびました。 聖観世音菩薩が本尊だと伝えられています。
境谷処刑所
1972年に中谷栃木洞で草刈り入会券を巡り東と西で争論が起こった事により始まったのが山論の始まりです。
この境谷処刑場に関係する享保の山論は4年間に渡って争っていましたが、結局解決する事無く首謀者の二人が境谷で斬首する形で終結する形となりました。
毎年この村では12月に『村掟』というものがあり、惣百姓の調印がありました。しかし。1704年の村掟に記載されていた項目『神土村草山組切り証文』を追加したため惣百姓17名が調印を拒みました。
それに対して村役人は苗木に出頭するよう命じたがそれを拒否し江戸に向かいました。しかし、その途中捕らえられ苗木に護送され残酷な刑に処されることとなりました。
境谷処刑所は最低限の惣百姓としての生活の権利を確保するために当時の政治へ果敢えに執拗に向かった農民の執念の歴史の跡であります。
播隆の名号塔
播隆の名号塔の銘文では、『槍ヶ岳開祖で播隆上人の手になるもの』と伝えられています。
しかし、東白川村に播隆上人が逗留したと記録はありませんが、上人が美濃〜飛騨へ行く際にこの村を経由し向かったという記録もありません。
なので、どういった経緯で銘文が書かれたのかは不明です。播隆の名号塔は自然石の 濃飛流紋岩類が使われており、彫り手は長野県高遠村の者であったと伝えられています。
1835年にこの地域で悪病が流行したり、凶作が続きました。その際に越原村の大明神である安江清九郎が中心になり悪病退散を祈願し、村人は豊作を祈ってここに弘法屋敷内に播隆の名号塔を建てました。
廃仏毀釈の令が出た際には村人は命令に背き播隆の名号塔を新巣川に伏せて渡り石にして隠していました。
しかし、新巣川が雨で増水する際に名号が見えてしまうので村人は川岸に引き上げ供養しました。そして1928年に現在地に再建されました。
一石十三仏塔
十三仏塔はとても珍しく、一石板碑の形となるととても貴重な存在であります。
この塔もまた廃仏毀釈の洗礼にあいましたが村内にある多くの石像物が壊されたがこの塔は何故か無償で残っており、後年誰かの手によって今現在の場所に再建されました。
元々は笠がついていたと言われていますが、今は見当たりません。十三仏とは亡くなった方の法事を33回忌までの13回行う供養に配された13の仏菩薩のことを言います。
岐阜県加茂郡東白川村の見どころ!廃仏毀釈の令によってお寺や神社など影響を受けた町【岐阜県加茂郡東白川村】のまとめ
廃仏毀釈の令によって沢山の神社やお寺、塔などを破壊しなければいけませんでしたが、それでも村人によって再建されたりととても神聖な物を信仰し大事にしています。今現在でもそういったものを大事にされ歴史が語りつがれていることを感じることが出来ます。